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脳と咀嚼 小林義典

Ⅰ はじめに

近年、食事時間の短縮を図る軟らかいファーストフードの摂取の増加、安易な健康補助食品や栄養剤の多用、また老人ホームや介護施設などで必ずしも高齢者個々の摂食機能に配慮した食事形態が執られていないことなどにより、咀嚼が疎かにされていることから、口顎顔面構造の成長発育と唾液の分泌の促進、肥満や骨粗鬆症の予防、全身の運動機能・免疫力・QOLの向上、姿勢の安定化、脳の活性化、リラックス作用などの健全な咀嚼による効能が害われており、その影響が懸念されている。
そこで、本稿では、咀嚼と脳、特に脳の活性化、リラックス作用との関係について、筆者らの臨床研究の結果をまじえて考察してみたい。

Ⅱ 咀嚼と脳の活性化

咀嚼による脳への入力刺激は、脳内温度の上昇を促し19)、脳細胞や脳代謝を活性化する20)ことが示唆されており、脳内ヒスタミン神経系を賦活して食欲を抑制するとともに、内臓脂肪の分解や体熱産生と放散を促進し、肥満を予防できることが確認されている21)。また、咀嚼による顎、口腔、顔面領域からの大量な機械受容性感覚、味覚、臭覚、温度感覚などの信号が網様体を活性化して覚醒作用を起こすことが明らかにされている22)。この三叉神経を介した強い感覚入力による大脳皮質の覚醒作用は、行動的にも覚醒するので、植物人間化した患者に姿勢を正して経口摂取としての訓練をしたところ、意識が回復して社会復帰した症例もあることが報告されている8)ことからすると、口腔には鋭敏な皮膚感覚、味覚などの特殊感覚があるために、咀嚼による脳への多彩な感覚入力が予測でき、寝たきり者の覚醒効果が期待される。現実にガム咀嚼は、覚醒効果6)に加え、脳循環の持続的な賦活化23)や脳の損傷のリハビリテーション効果24)のあることが示唆されている。
脳のニューロンの活動の増加の指標となる脳血流の増加をPET(positron emission computed tomography)を応用して測定した研究7)では、咀嚼運動により大脳皮質の一次感覚運動野・補足運動野・鳥や小脳、線条体などの広範囲な部で脳血流の増加が確認されている。これは、意識レベルや運動のプログラムづくり、遂行、その微調整に加え、情動、記憶・学習、味覚、食べる動機づけなどにも密接に関係することを意味する。実際に、用事や小学生の学習・記憶能力や運動機能は、健全な咀嚼能力があると優れており、知能指数との間に相関が認められている2,8)。また、ガム咀嚼は、脳の老化を抑制することが示唆されている24)。
このように、咀嚼は、脳の活性化を促すといえるが、既述の食事時間の短縮を図るファーストフードや介護や介助で食事の時間の短縮とともに、効率に重点が置かれた軟らかいきざみ食やブレンダー食を想定した軟性食物の摂取は、学習効果や遺伝子発現に影響を及ぼし、脳の老化を早めることが示唆されている。また、介護や介助では、ベット上であるいは上半身を傾斜させた食事形態がとられる場合も多いこと、さらに既述の食物人間化した患者の咀嚼訓練では、姿勢を正す訓練も加えられていることなどからすると、食物の性状や姿勢などの咀嚼の条件を明らかにしておく必要がある。
これらのことをふまえ、筆者ら26-33)は、脳の活性化が咀嚼の条件によって変化するか否かを明らかにする目的で、脳血流を分析した。分析に先立ち、咀嚼時の脳血流の分析では、既述のPETやfMRI(functional magnetic resonance imaging)34)が応用されているが、これらの装置は、高価でかつ大きく、またPETの応用は、放射性剤を含む薬剤を注射する必要があり、その薬剤が全身に分布するまでに約1時間かかり、撮影後も約1時間安静にするために合計約2時間を要し、撮影前の1食分と甘味料を絶食しなければならず、空間分解能が十分ではなく、また、fMRIの応用は、撮影時の姿勢を固定する上に、運動動作を十分に行えないなどの難点があることに対応し、多数例の脳の血流量の変化を無侵襲で簡便に、しかもリアルタイムで測定できる脳血流分析システムを開発した。これは、近赤外分光装置(NIRO300、浜松ホトニクス)による脳血流の変化を他の生体現象と同時に視覚的、定量的に評価できるようにプログラムを作成し、構成したものである(図1)。MRI画像の分析から、脳血流の測定プローブの照射部と受光部との距離を4cmとし、運動野相当部の皮膚上に毛髪をき分けて設定する(図2)ことにより、表面血流(図3)と咀嚼筋筋活動(図4)の影響を受けずに、主に運動野を中心に広範囲な部の脳血流を正確に記録できることが確認できた。
このシステムの応用による分析の結果、脳血流は、図3に示す所見から明らかなように、咀嚼運動に一致して有意に増加し、その量は、手指運動よりも多いことが確認された(図5)また、ヒトが最もスムーズかつ自然に咀嚼ができる円柱形で重量2gのグミゼリー35)の硬さを調節してケーキに相当する硬さ、軟らかいごはんに相当する硬さ、硬めのごはんに相当する硬さ、イカやタコのさしみ相当する硬さの4種類を試作し、健常者10名にそれぞれ咀嚼させたところ、脳血流量は、硬さが増すに従って増加し、それぞれの硬さ間に有意差が認められた(図6)。これらの結果は、咀嚼が脳の活性化を促し、食物の硬さが増すに従って向上することを明示している。要するに、いわゆる歯ごたえのある食べ物を含めて咀嚼することは、脳の活性化に極めて重要であるといえる。
ちなみに、十分な咀嚼は、唾液の分泌を促進し、唾液に含まれるEGF(上皮成長因子)やNGF(神経成長因子)などのホルモンが脳栄養因子として老化を抑制するので、そのためには、硬めの食物を1口で30秒または30回以上よく咀嚼する必要があるといわれているⅠ,6)また、食物中の発ガン物質による発がん性は、唾液中に僅か30秒浸漬するのみでほとんど消失し、生活習慣病を発症させる活性酸素もほぼ消失することが明らかにされている3)。さらに、糖尿病の1つの指標にされている血糖値は、1口で30回以上の咀嚼と軟らかいファーストフードで代表される1口で7,8回の咀嚼とを比較すると、7,8回の咀嚼では、上昇し続けるが、30回以上の咀嚼では、20分後から下降に転じるという10)。これらのことに、前述の筆者らの研究の結果を加味すると、脳の活性化を促す咀嚼時間の目安は、少なくとも1口で30秒(30回咀嚼)程度と考えてよいだろう。
図7は、健常者の10名にごはんを8gを上半身が直立した座位、60度仰臥位、30度仰臥位、水平位(仰臥位)の各姿勢位でそれぞれ嚥下まで咀嚼させた時の脳血流量を示す。脳血流量は、上半身を傾斜させるに従って減少し、それぞれの姿勢位間に有意差が認められた。一方、咬筋筋活動量は、それぞれの姿勢位間に有意差が認められなかった(図8)。すなわち、咀嚼による脳の活性化は、上半身を直立した姿勢で促進するが、上半身を傾斜または仰臥した姿勢では、同じ力で咀嚼しても望めないことを明示している。この咀嚼時の姿勢は、特に介護や介助では、十分注意しなければならないだろう。

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